龍刻 webストーリー - アイナ編 - 著:鷹海和秀

 夕刻の台所。

「うーん……」

 腕組みをしながら、笠木アイナは小さく唸っていた。

「こっ、これでいいんだよねぇ?」

 まな板の上には、まるまる二個分のレモンの輪切り。厚すぎず薄すぎず、きれいにそろっている。実際アイナの包丁さばきは、クラスメイトからも羨ましがられるほどだった。

「剣道やっているから、刃物の取りあつかいは、お手のものなのよね〜」

 なんて冗談めかしてしまうアイナだったが……

「実は、きれいに切れたように見えてても……」

 言いながら、端を持ちあげる。案の定、全てがつながって持ちあがる……

「なんてことは、ないわよね! あははははは……」

 ホッと胸をなで下ろしたのもつかの間……

「ってもう! なんでレモン切るだけで、こんなにドキドキしなくちゃいけないのよぉ、皆森高校・女子剣道部主将・笠木アイナ!」

 ひとりしかいない台所で立ちすくみながら、自分で自分にツッコミを入れる。

「はぁ。しかもこれ、あとは容器にいれて、ハチミツを注いでフタするだけなんだよね」

 つぶやきながら、モタモタとその工程をこなそうとする。ややあって、なんとか閉められた容器を冷蔵庫にしまうと、そこにへたりこむ。

「うう……たったこれだけのことに、なんで一時間もかかったんだろう?」

 まあ完璧な切断をなすために、そのほとんどの時間と労力を費やしたのだ。ある意味、仕方がないともいえる。だがその出来は、料理人というより、金属加工業者の所業に見えないこともない……

「うー。考えすぎ、考え過ぎよアイナ……心頭滅却すれば、火もまた涼しって言うじゃない……」

 もはや何を言っているのか、自分でもよくわからない。それを指摘する人が付近にいなかったことだけが、不幸中の幸いといえるだろう。そのとき……

「ツカサ、喜んでくれるかな」

 ふと漏れたのは、男子剣道部・主将の名前だった。


 翌朝。
 教室の扉が開き、つい最近転入してきた水乃内美流が、しなやかに姿を現した。

「みなさま、おはようございます」

 教室にいる全員に対して、耳にするだけで気分がほぐれてくる、すがすがしい笑顔をふるまう。
 そこにはまだ十人ほどしかいなかったのだが、そのなかのひとりが、人なつっこい声をかけてくる。

「よう! おはようおふたりさん。今日はいつもよりだいぶお早いお着きで」

 『待ちかねていた』といった顔をしているのは、帰宅部所属の安部アツシだった。

「そうなのですか、ツカサさま?」

 まだ学校のことに慣れていないのか、目を白黒させる美流。

「まあ、今日の朝練は中止だったからね」

 美流の疑問に答えながら、続けて水内ツカサが姿を見せる。

「まあ剣道部は、毎日朝練をしてるからね。今日はたまたま、顧問の内海先生の都合で、中止になったんだけど」

「ふーん。だったら、もうちょっとゆっくり学校に来てもよかったんじゃねえの?」

 アツシが不思議そうに首を傾げる。そういう自分のほうが、もっと前から学校に来ていることは棚にあげて。

「まあね。でももう、日課みたいなものだから」

「な〜るほどー。それでアイナも、ここにいるってワケか」

「あ、そうなんだ?」

 言われてツカサが見回すと、自分の席で頬杖をついていたアイナが、急に姿勢を正す。

「あっ、おはよ……」

「おはよう、アイナ。……ん? どうしたの?」

「ど、どうしたのって、いきなりナニよ……」

 目を何度も瞬かせながら、小首を傾げてツカサを見る。

「いや、なんか調子が悪そうじゃない?」

「や、やだ、ほら、今日は朝練がないから、調子が狂ってるだけよ、きっとそう。そうに決まった」

 バタバタと手を振る。

「そうなんだ……まあ、アイナは練習熱心だからね」

「そ、そうかもね……」

 今度は急に落胆の色を見せて、いきなりプイッとそっぽを向く。アイナの内面では、さまざまな感情がめまぐるしく交代しているようだ。

「ところで、さっきから何だか、甘いような、それでいて酸っぱいような、なんとも言えない匂いが漂っているんだけど……青春の香りってやつ?」

 アツシが鼻をクンクンいわせながら、割りこんでくる。

「犬じゃないんだから……」

「えっ、そ、そんなに、におう!?」

 慌てたアイナは、服の胸元を広げて、自分の匂いを嗅ごうとする。

「そんな……今日は朝、運動で汗をかいたわけじゃないし、だいいち練習の後だったらちゃんとシャワーで流すわけだし……」

「ちょちょっと、アイナ……」

 一瞬ツカサは、少しはだけたアイナの白い胸元に目を奪われるが、すぐに顔を赤らめて目をそらした。
 そんなふたりには目もくれず、アツシはいきなり、アイナの机に載せられていた、ちょと膨らんだ黒い学生鞄にかじりついた。

「あった、これだ!」

「え?」

 アイナは一瞬、目の色を白黒させる。

「私も、なんだかいい香りが漂っていると思っていましたよ」

 美流が、菩薩のような表情で言った。

「あ、もしかして、これのこと……」

 アイナは、ゆっくりと鞄を開けて、弁当箱大の半透明のプラスティック容器を取り出す。

「うぉおお、それそれ」

 アツシの興奮は、最高潮だ。

「へえ……僕には、よくわかんなかったな」

「あんた、鼻でも詰まってるんじゃないの?」

 目にも留まらぬ速度で、アイナはツカサの鼻を掴む。

「ふがふが」

 ぐりぐりと左右に動かすと、ツカサが涙目で『やめてくれ』と訴えていた。

「あ、アイナさま、そのようなマネは……」

 美流が、どうしていいかわからず、困っている

「ととと、ところでその素晴らしきかぐわしき物体は……なに?」

 アツシの現在の関心は、そのタッパーの中身に限定されているようだ。

「これ? 見てわかるでしょ」

 言いながらツカサの鼻から手を放し、かぱっと容器のフタを開ける。

「うぁ、痛かった……」

 深い琥珀色に浮かび沈みしている、いくつものイエローの輪切り。

「まあ、タチバナかダイダイの蜂蜜漬けでしょうか? それとも柚子? すだち?」

 美流が目を輝かせた。

「ほっほう、これは……」

 アツシが違う意味で目を輝かせ、ごくりとツバを呑みこんだ。

「いや、確かに、レモンは柑橘系なんだけどさぁ」

 ペースを乱されたのか、微妙に当惑げなアイナ。

「『レ紋』……ですか? あぁ、確かになにかの紋所のようにも見えますね」

「ううっ……どこからどこまで、突っこめばいいんだろう?」

 アイナはそのまま、頭を抱えた。

「え? 私まさか、また何かおかしなことを言いましたか?」

「紋所はともかく、レモンってのは確かにミカンの親戚だから、間違ってはいないけどね」

 ツカサの言葉に、美流は安堵の吐息をもらす。

「そうですか、よかったです」

 それを見たアイナは、イライラしたような表情で言った。

「まあ、これはアレよアレ。いわゆるレモンのハチミツ漬けってやつ? レモンはビタミンCいっぱいで、スポーツの後の疲労回復には効果的なんだけど、スライスとか丸かじりとかじゃ、酸っぱさがキツくてあんまり食べられないから。こうすると、いいでしょ?」

 どこからか聞きかじった知識だった。

「そうだったのですか。大変勉強になります」

 美流の目は、心の底から感銘を受けていた。

「ふーん。しかし、なんでまた急に?」

 ツカサは怪訝そうだ。

「ぶ、ぶ、ぶ……」

「ぶ?」

「部活の後輩の子たちが興味持ってるみたいだったから、試しに作ろうって思っただけで、べ、べ、べ……」

「べ?」

「別に、ツカサにだけ食べさせようと思って作ってきた、わけじゃないわよ!」

「え?」

「ツカサさま……だけに?」

「だ、だ、だから、そうじゃないってば!」

 三者三様、目をパチクリさせているその瞬間、アツシの目がキラリと光った。

「ほっほう。そういうことなら……そのレモンの蜂蜜漬け、このアツシさまがいただいたぁぁぁぁぁ!!!!」

 容器から一切れを奪い取り、そのままマッハの速度でダッシュしていた。

「あっ……ちょっとコラッ!! なに横取りしてんのよっ!!」

 一瞬遅れて、アイナが事態を把握する。

「ぬはははははっっ!! この皆森高校の《蒼き鷹》に狙われたが最後、無事であった獲物は、今の今までひとつたりとてないのだっ!!」

 遠ざかるアツシを、なんだかうらやましそうに美流が見送る。

「アツシさま、とても強そうな二つ名をお持ちなのですね」

「いや、感心しなくていいから。あれはきっと、今アツシがデタラメに作った名前だから」

「そ、そうなのですか? 私はてっきり……」

「待てぇっ!! この泥棒猫の《蒼き鷹》ぁ!!」

 ものすごい剣幕のアイナ。それはまるで、ネコがネズミを追いかけているようであった。

「アツシさまが《蒼き鷹》でしたら、アイナは《燃ゆる女武者》のようですね……」

「あっはっは。違いない」

 少しピントのずれた美流の所感に、ツカサは思わず笑ったのだが……

「ん、武者?」

 ハッとして目をこする。アイナは、いつの間にか竹刀をブンブン振り回していた。

「待ちなさい! 今度という今度は、ぜーったいに許さないんだからね!」

 バシッ!!

「うわわわっ!!」

 竹刀は、アツシの背中をかする。

「よくも、乙女の純情を踏みにじって。ぜーったいに、許せない!」

 バシッ!!

「お、落ち着こうよ、アイナさんっ!!」

 器用に頭を振って避けるアツシ。

「いいから返せって、言ってるでしょーが!!」

 バシッ!!

「うわっ。暴力反対! 絶対はんたーーーい!!」

 足払いをジャンプで避けるアツシ!

「さすが《蒼き鷹》です……」

 何にでも感動するのが、美流のいいところなのだろう。

「うーん、確かにまるで背中に目がついているようだ……」

 ツカサが、アツシを剣道部にスカウトしようかと、何回目かの思案を重ねたその時……

「よっしゃー、一気に行くぜ!」

「え?」

「ひょいっ、ぱく、ごっくん」

「あああああああっっっ!!!」

 アツシがスキを見て、ついに持っていたレモンを、口の中に放りこんでしまった。

「よっ、よくも、私が一生懸命作ったものおおおおーー!!」

「うおぉぉぉ。あっまーい。すっっっっぱああああああああああっっっっっっ!!!!!!!!!」

「え、すっぱい!?」

 ツカサと美流が首を傾げる。その時……

「てーーんーーーちゅーーーーうーーーーー!!!!」

「うひょひょひょひょー!」

 スパコーン!!
 朝の教室に、実に気持ちのいい打撃音が響き渡った。


 そして、保健室。

「竹刀で、防具もない脳天を、クリーンヒット……か」

 保健医である阿部セツナ先生の表情は厳しい。それは、戦死者を看取る軍医か、従軍看護士のような目つきであった。

「うう、ごめんなさい。セツナ先生」

 うなだれ、平謝りするアイナ。

「ああ、いいのいいの」

 すると戦場の女神は、満天の笑みを浮かべる。

「謝る必要はないのよ。アツが悪いんだって、わかりきってるから」

 女神の弟は、すぐ近くのベッドで寝こんでいる。

「うーん……すっぱい……痛い……あまい……うひひひひ……」

 寝言なのか、うなされているのか……

「まあ、アツとツカサくん以外だったら、シャレにならないから気をつけなさい」

 セツナ先生は、さらっと言った。

「は、はあ……」

 アイナは納得がいっていない。

「……って、僕も許可されちゃう人なんですか!?」

 一緒に付き添っていたツカサが、いきなり声を荒げた。
 美流がマイペースにそれを受ける。

「ツカサさまなら、どのような困難があったとしても、必ずそれに打ち勝つと、私信じています」

「ええっと、そういう問題じゃないんだけど……」

 セツナ先生は、それをシカトして言う。

「でもアイナちゃん、レモン漬けはいっぱいあるんだから、1枚ぐらいでそんなに怒らなくても、よかったんじゃない?」

「だ、だって、つい……」

 もじもじと、ベッドのシーツに“の”の字を書くアイナ。

「ふぅむ? で、これがその諍いのもと……と」

 セツナ先生は、机の上に置かれていたレモン漬けを、ひょいっとひとつ取る。

「ぱく、ごっくん」

「ああああああ、先生まで!」

 そのしぐさは、弟とあまり変わらない。そして……

「うっはぁあ、アイナちゃん? これ、まだ漬かりはじめだねぇ」

 セツナ先生は片目をしかめる。

「えっ? 昨日の夜から、しっかりハチミツに浸しておいたのに?」

 狼狽するアイナから視線をそらして、セツナ先生はクスッと笑った。

「アイナちゃん、レモンのハチミツ漬けは、一週間ぐらい経たないと、すっぱさは抜けないんだよ」

「そ、そうだったんですか!?」

「あせっちゃったんだね」

 それは慈愛に満ちたスマイル。

「誰かのために作ってあげようと思う。それで気が逸るのは、よく解るよ」

「や、やだなあ、そんなんじゃ……」

「ただ、大事な相手のことを想うんだったら、レシピや作りかたは、ちゃんと確認すべきだね」

「う……そ、そうですね」

 先生と生徒の間で、美しい時間が流れる。

「まあ、少しぐらい酸っぱくても、効果はあまり変わらないかな? それにこれぐらいの失敗、いちいち気にすること、ないわよ」

「あ、ありがとうございます」

「あー、何だか懐かしいわぁ。昔はあたしも、似たような失敗したこと、あったかもね」

「え? そうだったんですか?」

 いきなり、ツカサが割りこんでくる。

「ツカサ……」

 アイナの視線が、不安げに泳いた。それは美流も一緒だった。

「ツカサさま?」

「でも、いったい誰に?」

「それは……ナ・イ・ショ」

 セツナ先生が、顔の前で人差し指を振った。

「な、なんだか気になるなあ……」

 言いながら、ツカサは無意識にレモン漬けに手を延ばす。

「……って、先生にまで色目を使うなー!」

 ドガスッ!!

「ぐあっ!」

 思わず出されたアイナの肘鉄が、みぞおちにきれいに決まった。

「あっ! ご、ごめんツカサ!」

「ひ、ひじてつも……かん……べ……ん…………」

「ツカサ? ツカサー!?」

「……がくっ」

「ツ、ツカサさま、お気を確かに!」

 アイナと美流に、両側から体を揺さぶられつつも、意識が薄れていく。その暗黒の世界のなかで、ツカサは思った。
『けっきょく僕って、アイナのつくったハチミツ漬け、食べられてないじゃん』
 場違いなのか合っているのか、よくわからない感想だ。
 しかも最後に耳にしたのは、こんなセリフである。

「ふぅ……アイナちゃん、保健室は気軽に、想い人を気絶させてもいい場所じゃないんだがなぁ」

 あわれ、ツカサの運命やいかに?

 つづ……かない?