龍刻 webストーリー - 美流編 - 著:健部伸明

 朝。台所。

 小鳥のさえずりと一緒に聞こえてくるのは……

「ふーんふふんふんふーん♪」

 機嫌のいい鼻歌と、リズミカルにまな板を叩く、包丁の音だった。

 やがてそれは、食材の水分と、フライパンの熱とが奏でるアンサンブルへと変わっていく。



 愛しい人のために毎朝ご飯をつくる。その喜びを噛みしめていると、料理は何の苦にもならない。

 昔は、大の苦手だったのだ。人のなすこと全てに戸惑い、失敗ばかりしていた。というのも美流の郷では、食べ物は野山にあるものだし、なにもかもが自然に育っていく。加工するという感覚が、まるでわからなかった。

 けれど今では、手をかけるということが、人にとっての愛情表現なのだと気づいている。だからこそ心をこめて、ひとつひとつ作りあげていく。そして……

「えいっ!」

 宙に向かって、手を差し出した。その手のまわりで、空気中の水分が理想的な形で姿を現し、渦を巻いていく。それはさながら、ひとつの小さな竜巻のようだった。

 その不可思議な渦動は、美流がすうと手を下ろすと同時に、かねてより用意されていた水筒のなかへ、すっぽりと収まる。

 しずくの音が、辺りに神妙に響いた。

「これでよし……っと」

 美流は、会心の笑顔を浮かべながら、水筒のふたを閉じた。

 するとそこへ、かすかな風の気配とともに、別の存在が姿を現した。

「毎日毎日、ご苦労なことだ」

 その男は、目を細めながら近くの柱に背をもたれ、腕を組みながら立っていた。

「覇流? なんですか、その言いぐさは!?」

 美流は、少し頬を膨らませる。

 覇流は表情を変えない。

「なぜそんなに、一生懸命になれる? しょせん人の一生など、泡沫のごとく消える夢に過ぎない。どんなに心を尽くしたとて、裏切られるのが落ちではないか?」

 それは、事実を述べているに過ぎない、淡々とした口調だった。

 だが美流は一歩も引かず、真っ向から睨み返した。

「それは違います。あなたにとっては一時(いっとき)にすぎなくても、他の誰かにとっては永久(とこしえ)の長さになる。短い時を見下すということは、つまりおのれの目や耳を鈍らせ、真(まこと)の姿を見ようとしていないことに、ほかなりません」

 覇流は片眉を上げた。

「それはつまり、われが鈍感だと、そう言いたいのか?」

「え? そ、それは……」

 美流は両目をまばたかせ、思わず手をバタバタさせてしまう。

 覇流が少しうつむき、背筋を真っ直ぐに伸ばした。

「わかった」

「わかったって、何をです?」

 美流の手の動きがピタリと止まる。

 覇流は背を向け、歩き出す。

「美流、汝の言うことが本当かどうか、われももう少し見極めてみることにしよう」

「覇流……」

 美流は片手を口元に当て、その姿を見送った。

 仲間である覇流には、自分の想いを理解してもらいたい。けれどそれは、美流と同じような体験をしなくては、無理な相談なのかも知れない。



 トントントンと、誰かが階段を下りてくる音が聞こえる。

 美流は我に返り、手早く盛りつけを済ませる。

「ふぁーあ」

 高校生ぐらいの少年が、寝癖のついた頭を片手でかきながら姿を現した。

「おはようございます、ツカサさま」

「あ、美流……おはよう。え? まさか、今日も朝ご飯を?」

「あたりまえです。朝ご飯は、毎朝食べるからこそ、朝ご飯と言うのではないのですか?」

「い、いや、そうだけど、そういう意味じゃなくて……」

 ツカサは、まだ困惑の抜けきらない顔で答える。

「さあさあ。朝の手習いに遅れないうちに、しっかり食べてしまいましょう」

「う、うん」

 普段朝食をとらないツカサは、なかば押しきられるかたちで席に着いた。

「うふふ」

 そして美流は、こんな毎日が永遠に続けばいいのにと願った。

 その少し後、美流はグラウンドで走りこみをしているツカサや男子剣道部を、応援していた。

 再会当初は溢れる想いを抑えきれず、ついツカサに強引に迫ってしまったが、今では「好きにさせておきましょう」という気になっている。無理に、気持ちをねじ曲げたくなかった。自分から振り向いて欲しかった。そんなことを考えていた矢先……

「どうです? マネージャーになる決心、つきましたか?」

 美流が振り向くとそこには、新任の数学教師である内海タツヒコがいた。

「え、あ、あの……」

 美流はしばし言葉を失う。そういえば内海は、剣道部の顧問でもあった。

「こうやって水乃内くんが見ていてくれると、みんなやる気を出してくれて、言うことはないんですがねえ」

 内海は、その細い目をさらに細めた。

 美流は、なぜだか落ち着かない気分になった。

「私は……前にも言いましたが、私はずっとここに居られるわけではありません。しなくてはならないことも、ありますし」

「ふむ」内海は、片手を顎にそえながら、首をかしげた。「心ここにあらず……ですか?」

「はい?」

 美流は、思わず内海の顔を覗きこむ。にこやかな仮面の奥にある何かを、探し出そうとする。だが……

「いや、こちらの話です」

 顧問たる先生は、会話を打ち切った。

「……」

 美流も、引き下がらざるを得ない。というのも、何を質問していいか分からないからだ。

「それでも水乃内さんは、あの水内くんを愛している……と?」

 だが内海は、表情も変えずに続けた。

「はい、その通りです」

 今度は美流も、迷わなかった。

「ほう。それはそれは……」

 内海は、感心したようだった。

「私は……水乃内美流は、一目合ったその日より、ツカサさまをお慕い申しあげているのですから」

「参りましたね」内海は苦笑せざるを得なかった。「こんなにも純真で真っ直ぐな思い、僕の人生のなかでも、受け取ったことはないなあ」

「そうですか?」

 そんな天真爛漫な美流に、内海は諭すように言った。

「いいですか、水乃内さん。きみにはたくさんのライバルがいる」

「はあ。薄々は、わかっています」

「でもそのなかで唯一、水内くんに対する想いを、公言している」

「そういえば……そうですね。どうしてなんでしょう? 言わなければ、伝わらないことも、あるというのに」

 内海は「ふう」と、ため息をひとつついた。

「ふつう、人間というものはですね、なかなか自分の心に素直にはなれないものなのです」

「えっ!?」

 美流は思わず立ちすくみ、動けなくなる。

「きっと水乃内さんは、本当に素直に育ってきたんですね。これにはさすがの僕も、脱帽せざるを得ないですね。あっはっはっは」

 内海は背を向けて、歩み去ろうとする。

「あ、あの……」

 どうしよう。なにをどう、話しかけよう。

 内海は振り返らない。

「その想い。ずっと貫いていくことです。どんなことがあっても、どこにも迷わないようにね。そうすればきっと……」

 その後はもう、何も聞こえなかった。



 * * *



 昼休み、学校の屋上で、美流は物思いにふけっていた。

 自分は、なぜここにいるのだろう?

 その答えは簡単だ。みずから、望んだから。いつかツカサに逢えることを信じ続けた結果、願いがかなった。だからこそ、こんなにも近くに居ることができる。でも……

「美流ちゅわぁぁぁぁぁん!」

 背後から声をかけられた。

「あ、はい、何でしょう?」

 クラスメイトの安部アツシが、いかにも情けない顔で立っていた。

「あ、あの、オレさ、ちょっと、美流ちゃんに聞いてもらいたいことがあって……」

「は、はあ?」

 慌てた口調は呂律がまわらず、額は吹き出した汗でびっしょり濡れている。それを白いハンカチで必死に拭きながら、アツシは思いきったという感じで叫んだ。

「好きだ!」

「あ、はい、何がでしょう?」

「え、えっと、あの……」

 アツシの表情が曇り、うつむいたかと思うと、今度はしゃがみこんで、コンクリートの地面に“の”の字を書き始めた。

「ううっ。いいんだ、いいんだ。どうせオレなんか。いじいじ……」

「あ、あの、アツシ様?」

 アツシは目を合わせず、ブツブツとつぶやく。

「いいなあ。どうして美流ちゃんは、そうやって好きな相手に好きだっていえるんだろう。オレなんか、ずっと想ってたって、絶対に言えないんだ。だって、向こうはオレのこと何とも思ってないこと、わかってるんだし。どうせどうせ……」

「お気を確かに」

 美流は、そっとアツシの肩に手を触れた。

「え?」

 気落ちした少年は、まるで女神か太陽でも見るように美流を振り仰ぎ、まぶしそうに目の前を手で覆った。

「人を想う心。それはそれだけで、何よりも素晴らしいものです。好きになった人のことを、いつまでもいつまでも忘れないでいてください。それは宝です。たとえ相手が振り向いてくれなくても、心のなかの好きだという気持ちは、誰にも否めないものなのですから」

「美流ちゃん……美流ちゃぁああああああん!」

 泣き崩れたアツシは、思わず美流の胸に飛びこんでいた。

「よしよし」

 美流は驚いた風もなく、その背中をポンポンと撫でてあげた。

 そんなこんなで、一日が過ぎた。

 今の美流は、再びツカサと食卓を共にしていた。夕餉の席だ。

「ねえ、美流。今日もときどきいなくなってたけど、何かあった?」

 ツカサは目をあげ、素朴にそう尋ねた。

「いえ、珍しいことは何もありませんでしたよ」

 美流は、満面の笑みを浮かべて、そう答えた。本気でそう思っていた。

「そうか、ならいいんだけど……」

「けど、ですか?」

 小首をかしげる美流。

「い、いや。ただ、この味噌汁、すごくうまいなって思って」

 ツカサは赤くなりながら、顔をそむけている。

「はい。ありがとうございます。愛しい想いをこめて、作らせていただきましたから」

「う、うん。ありがと」

 そのツカサの言葉が、美流には何よりの至福だった。美しい音楽か、鈴の音色のようにも響いた。だから、心の中でこう言った。

「あなたのその笑顔を見たいから、私は叶う限りいつまでも、ここでこうしていようと思うのです」

 それもまた、素直な気持ちであった。



FIN